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今週の禅語

定期的に禅語を紹介するページです。毎週更新。

禅語は禅宗の文献などに記述された言葉です。その言葉を見たり、意味を理解することで、日常のふるまいや作法から生き方に至るまで、何かに気付かされたり、豊かな人生を過ごすヒントを得るきっかけにつながります。最近では禅語を経営に取り入れたり、仕事に活用したりする人も増えています。


(ぜんとはこころのななり)

現在、「禅-ZEN-」は、世界中で使われる言葉となっています。この「禅」という言葉について、古人は「禅とは心の名なり」と言っておられます。「禅」という名前をつけてしまうと、何か特別なもののように思えますが、それは、わたしたちが、お互いに平等に生まれながらに持っている「心」であることを示しておられるのです。
臨済禅師は、「山僧(さんぞう)が人に指示する処(ところ)の如きは、祇(た)だ你(なんじ)が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す」とおっしゃられています。人惑とは、知識や学問、社会の地位や権威、それに、思い込みなどの、自分自身の妄想や感情などを意味しており、それらに「だまされてはいけない」と示されておられます。
わたしたちは、日々、自身の問題や、社会や世界の問題に追われていますが、その原因には、わたしたち一人ひとりの執着があるのではないでしょうか。社会に生きるわたしたちが、お互いに、執着をせず、自我の押しつけあいをせずに施しあってゆくならば、そこが白隠禅師のおっしゃる「当処すなわち蓮華国」、この社会がそのまま理想の国、極楽浄土や天国になる、ということでありましょう。
そのために、わたしたちも、お互いに、少しずつでも、いろんなものを捨て、妄想・執着から離れる工夫をしてみませんか。禅は、そのためにあるのですから。

原典など:『天目中峰和尚広録』第5之下「法語」ほか
「今週の禅語」をお読みになられた方々へ

「今週の禅語」は今回で終了となります。短い間でしたが、お読みいただき、ありがとうございました。ただ、恐れているのは、これらの解説を読むことによって、さらなる、いらざる知識として、読まれた方々の荷物になること。これらの話は、すでにたくさんの重荷を背負っている方々に、さらなる荷物を重ねるためではなく、それらの荷物を下ろしていただくためのものです。これらを読まれた方々が、固定概念や先入観などの妄想、または、ちょっとばかりの経験への思い込みから離れ、一人でも多くの方が、持って生まれた「きれいな心」で生きること、そのための学びを続けていかれることを、お祈りしております。
2016年11月22日更新

(じとうみょう)

このことばは、釈尊が入滅間近の説法で示された教えとして知られています。そのため、厳密にいうと禅語とはいえないのかも知れませんが、仏教の特色をよく表わしており、禅宗でも好んで取り上げられることばです。内容としては、「釈尊が亡くなった後、弟子達は何を頼りにしていけばいいか」という阿難尊者の問いかけに対する釈尊のお答えとなります。
ここで釈尊は、「汝自らを灯明とし、汝自らを拠りどころとせよ。法(真理)を灯明とし、法を拠りどころとして住せよ。他を拠りどころとすることなかれ」と諭されました。ちなみに、「灯明」と訳されている言葉は、原語では「島」とも解釈され、そのように説明されることもありますが、我が国では、古来より「自灯明・法灯明」の言葉で伝えられています。意味から考えますと、「灯明」も「島」も、どちらも「頼りとするもの」ということで用いられておりますから、どちらにしても、「自分と法を頼りなさい」ということになるでしょうか。
ただ、「自分を頼る」と言ってしまうと、「自分で考え、自分の好きなように生きること」などと解釈される恐れがありますが、ここで言われる「自分」とは、いわゆる自我ではなく、普遍的な法(真理)としての自己、すなわち、本当の自分のことを意味しています。ですから、一見すると、拠りどころが二つあるようにもとれますが、これらは別ものではなく、同じ意味なのです。
このような素晴らしいものが、お互いの中にあり、それが、自分を自分として在らしめている。仏教のお坊さんが法話の中で、よく「生かされている」とおっしゃいますが、このことは知識や感情で受けとめるのではなく、わたしたち自身で自覚することが重要になります。せっかく、わたしたちは、もとから人生を明るく照らす灯明を持っているのですから、各々それを発見し、お互いに、明るく照らしあって生きていきたいものです。


原典など: 『涅槃経』ほか
2016年11月15日更新

(ぶじこれきにん)

『臨済録』の中でも、有名なことばのうちの一つです。わたしたちは、日常的に、普段と変わりがないこと、あるいは危険がないこと、または、健康でつつがないことなどをあらわす時に、よく「無事」ということばを使いますが、これも禅の世界では、少々意味合いが変わってきます。
「無事」について、臨済禅師は「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事」と、あれこれ求める心がやんだところが「無事」であると、おっしゃっています。これだけでは少々難しいので、補足するなら、わたしたちは、もともと心の中に仏さまをいただいているのにもかかわらず、そのありがたい仏さまを放っておいて、外に向かって、自分にとってありがたいと思う存在を自らつくり、探し求め、それを得ることによって自己満足している、となるでしょうか。
禅は、心を清らかにするための実践です。わたしたちは、とどまることなく意識をはたらかせ、煩悩や感情にひきずられています。そこで、まずは、心静かにゆったりと一息ついてみませんか。コツとしては、その間は何も考えず、なにもかも忘れること、姿勢を調えること(背筋をまっすぐに伸ばして腰を立てる)、息を吐くときに下腹部に少し力を入れながら静かに長く、を心がけること。せっかくの機会ですから、日常生活の中に、心静かなひとときを取り入れてみてはいかがでしょうか。内なる仏さまもお喜びになられますよ。


原典など: 『臨済録』示衆
2016年11月9日更新

(いちあいいっさつ)

わたしたちは、日常的に挨拶をしています。通常、挨拶というのは、人に会ったときや別れ際などに「こんにちは」や「さようなら」といった言葉を交わすことをいいます。
もともとの禅語では、「一挨一拶」といいます。意味としては、「挨」は迫ること、「拶」は切り込むことで、相手に問いの言葉をなげかけ、その返ってきた一言、その一瞬の中に、相手の肚(はら)の中まで見通し、相手の力量(りきりょう)を読み取ることを意味しており、わたしたちが日常で使っているニュアンスとは、少々異なっているようです。
ただ、このような問答でなくても、ことばを用いて、「心」で「心」を読むのが挨拶であれば、現代を生きるわたしたちが行っている挨拶も、そんなに大きな違いはないように思いますが、いかがでしょうか。それに、なんと言っても、「こんにちは」という、たった一言で、あたたかい「心」に触れることもできるのですから。わたしたち、一人ひとりが、等しく尊厳なる存在です。お互いに、慈愛にみちた、あたたかい言葉をかけあっていきたいものですね。


原典:『碧巌録』第23則垂示
2016年11月2日更新

(そくしんぜぶつ)

禅の教えを表わす代表的なことばの一つです。読んで字のごとく「この心が仏である」という意味ですが、ここで問題なのは、私たちが、このことばを、どのように受け取るのか、にあると思われます。

さて、この「即心是仏」の「心」とは、どのような心でしょうか?

古人は、「おさなごの しだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」とうたっておられます。迷えるわたしたちも、お互いに、少しずつでも、妄想・執着から離れる工夫をしてみませんか。どんなに素晴らしい知識も、こちらの受け取りようによっては、「こころ」の汚れとなってしまいます。せっかく、私たちの中に仏さまがいらっしゃるのですから、それに恥じないように生きていきたいものです。


原典: 『無門関』第30則「即心即仏」
2016年10月26日更新

(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう)

これらは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ/しちぶつつうかいのげ)」という有名な偈文(詩句)の一部です。
まず、以下にその全文を記します。
・ 諸悪莫作(しょあくまくさ) : 諸(もろもろ)の悪(あく)を作(な)すこと莫(な)かれ
・ 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう): 衆(もろもろ)の善(ぜん)を奉行(ぶぎょう)せよ
・ 自浄其意(じじょうごい) : 自(みずか)ら其(そ)の意(こころ)を浄(きよ)らかに
・ 是諸仏教(ぜしょぶっきょう): 是(これ)が諸仏(しょぶつ)の教(おし)えなり
これを意訳すると、
・ 悪いことはしないこと
・ すすんで善いことをすること
・ 心を清らかにすること
・ これ(ら)が諸仏の教えです
となるでしょうか。

わかりやすい言葉です。とはいえ、そもそも、ここでいう善悪とは、何を指しているのでしょうか。これが確かでないと、自分では善をしたつもりでも、ことごとく善からはずれているかもしれません。
だからこそ、まずは、お互いに、煩悩・執着から離れ、心を清らかにするところからはじめませんか。「諸仏の教え」とある通り、これを行うのが、もっとも間違いのない「善」なのですから


原典など: 「七仏通戒偈」(『涅槃経』等)
2016年10月19日更新

(にちにちこれこうにち)

有名なことばです。意味としては、「毎日が良い日」となるでしょうか。ただ、このことばの持つ、ほのぼのとした印象や意味のとりやすさに惑わされ、自己流に解釈していませんか。
毎日が良い日。素晴らしいことです。ひょっとすると、ことばの解釈から、心の持ちようと受け取る方もいらっしゃるかも知れませんが、毎日毎日、いろんなことがありながらも、心の持ちようだけで、すべてを「好日」と受け入れることは、少々難しいように思いますが、いかがでしょうか。
それに、今日という日、今という時間は、二度とおとずれることがありません。そして、これらの貴重な時間の積み重ねによって、今のお互いがあるのです。だからこそ、今という時間をないがしろにせず、目の前でおこっていることを、そのまま、ありのままに受け入れ、それぞれになりきっていく。そのようにできてはじめて、すべてを「好日」といただくことができるのでありましょう。


原典: 『碧巌録』第6則「雲門日々好日」
2016年10月11日更新

(しゅじょうほんらいほとけなり)

わたしたち、迷っているお互いが、もともと覚(さと)れる者、仏なのです。言い換えれば、わたしたちは元来、覚れる者であるのに、知ってか知らでか、迷いの衆生(しゅじょう)となっている、となるでしょうか。
本来、仏とは自覚の意味で、完全な覚りに達した人のことをいいます。しかし、お釈迦さまが、お悟りをお開きになった時に、「奇(き)なる哉(かな)、奇なる哉、一切の衆生悉(ことごと)く如来(にょらい)の智慧(ちえ)徳相(とくそう)を具有(ぐゆう)す」とおっしゃったように、わたしたちは、不思議と、皆生まれながらにして、このようなこころを持っているのです。そこのところを白隠禅師は、「衆生本来仏なり」とうたわれました。
ここでは、健常者とか障がい者、または若いとか老いていることなどは、一切、関係ありません。生きとし生けるものすべてが平等に有しているのです。何とも不思議で、素晴らしいことではありませんか。
お釈迦さまは、上のことばに続けて「但(た)だ妄想(もうぞう)執著(しゅうじゃく)を以(もっ)て証得(しょうとく)せず」とおっしゃっておられます。わたしたちも、自分勝手な思い込みや不確かな知識などから離れ、お互い一人ひとりが、尊厳なる存在であることを自覚していきたいものです。


原典など :「白隠禅師坐禅和讃」(白隠慧鶴)
2016年10月4日更新

(ちそく:われただたるをしる)

私たちは、物や知識、または名誉や地位など、自分の欲を満たすものを探し求め、それらを得ようと欲しています。また、すでに得ているものについても、もっと良いもの、もっと多くのものを欲しています。そうすると、次から次に欲しいものがでてきて、満足することができず、いつまでたっても心の渇きを満たすことはできません。
どれだけあっても満足せず、足ることを知らない人は、現状に満足できず、あら ゆることに不満です。その結果、欲望の奴隷となり、意識や感情などにひきずら れることになってしまいます。
「心に不足というものが無ければ、これ以上の財産はない」とも申します。ないことを見るのではなく、あることを見て、それに感謝することが、満足にもつながる幸せの第一歩なのではないでしょうか。


原典など : 『涅槃経』・『遺教経』等 : 龍安寺石庭のつくばい
2016年9月26日更新

(はっぷうふけどもどうぜず)

八風の"風"は動揺を意味し、人の心を動揺させる八種類のものを指します。
その八種類とは、古来、このように説かれています。
・ 利(利益, 成功)
・ 衰(おとろえ, 失敗)
・ 毀(陰で誹る<誹られる>こと)
・ 誉(陰でほめる<ほめられる>こと)
・ 称(面前でほめられること)
・ 譏(面前で誹られること)
・ 苦(苦しむこと)
・ 楽(たのしいこと)
これらの八風は、絶えず吹きまくっており、そのために人の心は、常に動いています。また、心が動くということは迷いであり、迷うことによって苦しみが伴うのです。
この動いてやまない心に落ちつきを与え、どんなに八風が吹きまくっても決して揺らがない。そのように生きていきたいものです。


原典など : 『禅林類聚』巻2
2016年9月21日更新

(しゅじんこう)

主人公は、日常的には、映画やドラマなどの主役などの意味で使われることが多いようですが、禅の世界では、本当の自分のことを意味します。
普段、わたしたちは、好きや嫌い、泣いたり笑ったり、さらには、憎い可愛い、惜しい、欲しい、そのような意識や感情などを、本当の自分だと思っています。
では、ここでいう「本当の自分」とは何でしょうか?
その自分と会うために、まずは、これまで自分だと思っていた意識や感情などにとらわれずに、ありのままを観ることからはじめてみませんか。ひょっとすると、主人公である「本当の自分」と対話できるかもしれません。

原典など : 『無門関』第12則「巌喚主人」
2016年9月12日更新
手がなくて鍬を持つ
(てがなくてくわをもつ)
「空手(くうしゅ)にして鋤頭(じょとう)を把(と)る」-手がなくて鍬を持つ。そんなことはありようがないのですが、しかし、鍬を持っても持ったと思わねば空手と同じこと。こういう気持ちが大切だと思うのです。皆さんが仕事をする時、仕事をしても仕事をしたと思わぬこと、その時が一番能率が上がっている時です。

『愛語: よい言葉をかけて暮らそう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

2016年5月2日更新
言語道断
(ごんごどうだん)
「言語道断」と言うと、しばしば「あいつは言語道断なやつや」などと、あまり感心しない時に用いられますが、もともとはそうではなく、言葉や文字などをもって述べる方法のない、絶対境のことを言うのであり、「心行処滅(しんぎょうしょめつ)」という、念の作用が及ばず思慮分別を超えたことを示す句と、対句(ついく)として用いられる言葉であります。 そこで、その純粋な人間性とは何かということになりますと、それは、鏡のような清浄無垢(しょうじょうむく)で何もないもの。何もないのですから、もう説き聞かせようもなく、「言語道断」です。何とも説明の言葉がないというのです。

「信心銘」(『無文全集』第9巻 四部録等, 禅文化研究所)より

2016年4月11日更新
主人公
(ずいしょにしゅとなれば
りっしょみなしんなり)
随処に主となるという主とは、何ものにも束縛されない自由な主体性です。どこへ行ってもお山の大将になって、独善的にふるまうことではありません。何ものにもとらわれない真の自由人になることで、みずからの主人公である尊厳なる人格を自覚し、いつでもどこでも、その主人公を失わないならば、その場その場に真実を見出す。
お釈迦さまは、「今この三界は悉く我が有なり、その中の衆生は皆是れ我が子なり」と悟られて世界の主人公になられた。これが主となることです。これが主人公の心境でなければなりません。この世界が私の家で、その中に暮らしている人類はもちろん、牛馬、犬猫、鳥魚、草木に至るまで私の子供であるという、大きい温かい愛情を持つことでありましょう。「仏心とは大慈悲心これなり」というのもこのことです。どこにいっても、そこが私の世界であり、そこに愛情と責任を持つなら、その人の行動はすべて真実であるはずです。

『床の間の禅語 / 河野太通』(禅文化研究所刊)より

2016年5月16日更新
刹那に真をつかみ、真を創造する
(せつなにしんをつかみ、
しんをそうぞうする)

仮りの相である、動いていく。やがては亡びていく現実の自分を、今日ただ今という時間において最大限に活かしていく、そこに真をつかんでいく、そういう生活が、禅というものだと思います。脚下照顧、一分の隙もない、刹那刹那に真をつかみ、真を創造してゆく生活こそ、禅の生活でありましょう。

『和顔: 仏様のような顔で生きよう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

2016年4月25日更新
自分の中の摩尼珠
(じぶんのなかのまにじゅ)
お互いの体の中に、立派な仏性という宝石を、お釈迦さまがちゃんと縫い込んでおられるではないか。ただ、皆な気がつかんだけじゃ。なんぼ外の世界へ向かって仏を求めても、仏は外の世界なんぞにありはせんぞ。自分の心の中に摩尼珠があることを、ひとつ発見しなければならん。自分の心の襟を解いてもらわないといかん。

『愛語: よい言葉をかけて暮らそう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

2016年4月18日更新
無念無想
(むねんむそう)
これがお能であれ、文楽であれ、日本の文化、日本の芸道すべての極意であり、それを教えるのが禅でなければならんのです。禅というのは、特別な人がお寺へ行って一日中坐禅をしていることではありません。毎日の生活の中において、そのものそのものになりきっていくことが禅です。

『愛語: よい言葉をかけて暮らそう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

2016年5月9日更新

(らっかはいありてりゅうすいにしたがい、りゅうすいはこころなくしてらっかをおくる)

桃の花か桜の花か、はたまた椿の花か、山道に沿った小川を流れていく。それはゆらゆらとして、いかにも流れることを楽しんでいるように見える。片や流水はというと、落花を乗せていることなど無頓着の様子で、唯ださらさらと無心に流れている。

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。/ 西村惠信』(禅文化研究所)より
2016年4月4日更新
独坐大雄峰
(どくざだいゆうほう)
  ―生命の尊厳を自覚せよ―
ある僧が、「如何なるか是れ奇特の事-大変ありがたいこと、特ダネのニュースはどんなものか」とたずねたら、百丈禅師は、「独坐大雄峰-儂(わし)が今一人ここに坐っておる、そのことが奇特の事だ」と答えた。今現在生きておる、この自分というもののありがたさ、尊さ、そういったものを、ひとつよく自覚したいものです。

『和顔: 仏様のような顔で生きよう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

2016年3月28日更新
一日作らざれば一日食らわず
(いちにちなさざればいちにちくらわず)
これほど力強いことはあるまい。この大決心を以て事をやれば、いかなる事業にも成功することができる。働くために食うのであるか、食うために働くのであるか、などとよく云う人があるが、生まれた以上は働くのも当然の任務であるし、食うと云うのも事実問題でなければならぬ。この事実問題を解決するには、この「一日作さざれば一日食らわず」という大丈夫(だいじょうぶ)の心さえあれば、断じて迷うことはないと思う。

『禅窓閑話/ 菅原時保』(大正10年、禅話叢書刊行会)より
※一部原文を現代語訳して修正しています。

2016年3月21日更新
お前は誰か
(おまえはだれか)
君たちは今、自分で自分の虜となっている。自分で自分を決めてしまっている。そうして、本当の自分を追求しようとしない。「お前は誰か」「盛永宗興です」――それで答えになったと思い込んでいる。

『お前は誰か: 若き人びとへ』(禅文化研究所刊)より

2016年3月14日更新
不立文字
(ふりゅうもんじ)

禅を代表する言葉に「不立文字」があります。

一般的に仏教各宗派は、経典の説く内容を根拠としています。 それに対して禅宗は、釈尊から相承されてきた正法を宗旨とし、その体験を重視するところから、基本的に特定の経典を用いず、不立文字を標榜しています。しかし、この「不立文字」は、文字や教説が不要ということではありません。 近代、「ホンマモノ」の禅者といわれた山本玄峰(やまもとげんぽう)老師は、「不立文字とは、言葉や文字によりその意味を解するのではない。真実をさきにつかんでから言句(ごんく)を味わうことだ」と言われています。

たとえば、親が子供に向かって「バカ」と言ったとしましょう。 この「バカ」を文字通りとるならば、侮辱の言葉であり、大いに腹もたちます。

しかし、言われた子供の方で、親が自分を深く愛してくれている真実を体験としてつかんでいるならば、この「バカ」が、親の愛情から出た言葉であることがわかるでしょう。

つまり、「不立文字」とは、体験の上から言句を理解しましょうということで、経典を軽視しているのではありません。悟りが文字によって伝わったものではないとの立場から、文字や言句への執着を誡めているのです。

参考: 『臨済宗黄檗宗 宗学概論』(臨済宗黄檗宗連合各派合議所, 非売品)
2016年3月7日更新
冷暖自知
(れいだんじち)
いかに水が冷たいかということを、シェイクスピアがいかに美しく表現しても、人は「そんなものかな」と思う程度である。いかに火が熱いかということを、ダンテが美しい詩にうたっても、やはり火の熱さは伝わらない。水が冷たい、火が熱いということを知るためには、自ら水の中、火の中に手をつっこんでみなければ本当にはわからない。自らが火の中に手をつっこんでみて、「熱い!」という体験をしてこそ初めて、火が熱いということを知ることができるのです。
禅のみならず、仏教はすべて体験を重んじるということで、「冷暖自知」の宗教であるといえるのです。

『禅がよくわかる本/ 平田精耕』(PHP研究所刊)より

2016年2月29日更新
一期一会
(いちごいちえ)
―"今" "ここ" がもっとも大切―
私たちの毎日の生活も、一期一会でなければなるまいと思います。
"今"という時間、"ここ"という場所がもっとも大切です。おたがい暮らしの道は違っても、みんながその毎日を、まごころをこめて、めいめいが持っている美しい心のありったけをさらし出して生きていくところに生きがいがあるのです。

『和顔: 仏様のような顔で生きよう ― 山田無文老師説話集』(禅文化研究所刊)より

※四字熟語としてよく知られていますが、元は江戸時代の大名、井伊直弼が『茶湯一会集』で、茶道の心得として用いた言葉に由来します。

2016年2月22日更新
看脚下
(かんきゃっか)
禅寺の玄関によく掲げられていますが、自分の足元を見よという意味で、脱いだ履物を揃えるようにと、日常のふるまいや作法そのものについて気付かされます。もう一歩進めて解釈すると、他人によく見られたい、評価されたいとつま先立ちで背伸びをせずに、自分自身をよく見つめて、生き方を反省せよということになります。
2016年2月15日更新

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