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展覧会の構成

  • I 禅宗の成立
  • II 臨済禅の導入と展開
  • III 戦国武将と近世の高僧
  • IV 禅の仏たち
  • V 禅文化の広がり

臨済宗(りんざいしゅう)・黄檗宗(おうばくしゅう)の源流に位置する高僧、臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の1150年遠諱と、日本臨済宗中興の祖、白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の250年遠諱を記念する展覧会「禅−心をかたちに−」を京都と東京で開催します。

約千五百年前、達磨(だるま)大師によってインドから中国へ伝えられたといわれる禅は、臨済義玄禅師によって広がり、やがて我が国に伝えられ、中世には武家をはじめ、天皇家や公家の帰依を受け、日本の社会と文化に大きな影響を及ぼしました。江戸時代に入ると、白隠慧鶴禅師をはじめとする高僧らにより民衆への普及が進み、現代においても禅は多くの人々の心の支えとなっています。欧米では生活スタイルに「ZEN」の思想を取り入れている人々もいます。

特定の経典を持たない禅宗では、その教えは師の心から弟子の心へと連綿と受け継がれてきました。言葉や文字によらず(=不立文字・ふりゅうもんじ)、経典によることもなく(=教外別伝・きょうげべつでん)、師と弟子との直接的な関わりのなかで自分自身の心そのものをつかみ出し(=直指人心・じきしにんしん)、自分の心のなかの仏性を見出して(=見性成仏・けんしょうじょうぶつ)、直感的な悟りの境地へ至るというものです。理想化された超越的存在としての仏像よりも、歴史上実在した生身の祖師・先師たちの人間味あふれる姿を「かたち」として遺し伝えてきたのです。

本展では、臨済・黄檗両宗十五派の全面的な協力のもと、各本山や末寺、塔頭(たっちゅう=歴代住持の墓をまつる子院、寺院内寺院)に伝わる高僧の肖像や墨蹟、仏像、絵画、工芸など多彩な名宝の数々を一堂に集め、我が国における禅僧たちの足跡や禅宗の教えが日本文化に対し果たしてきた役割を紹介します。禅の真髄に触れる貴重な機会となるでしょう。

I 禅宗の成立

禅の教えは釈迦に始まりますが、禅宗は中国と日本において展開した仏教の宗派です。禅宗では、坐禅が修行の中心に置かれますが、それにとどまらず日常生活における実践も重視され、また日常語を用いた問答により宗旨の探究が行われます。そのような独自の宗旨と教団をそなえた宗派としての禅宗は中国で成立したもので、その初祖は達磨とされます。達磨は6世紀の初め頃にインドから中国に渡来し、その教えは二祖 慧可(えか)を経て、 六祖 慧能(えのう)へと伝えられました。慧能の法系からは唐代末期(9世紀)に数多くの高僧が現れ、中国的な禅思想が確立します。中でも峻烈な家風をもって知られる臨済義玄(?-867)を宗祖とする臨済宗は、その下にさまざまな門派が次々と興起し、今日の臨済宗十四派および黄檗宗につながります。ここでは達磨、慧可、慧能、臨済義玄など、歴代祖師の姿や言行を表した作品をご紹介し、インドから伝えられた禅が中国において禅宗として成立するまでの流れをたどります。

慧可断臂図

慧可断臂図(えかだんぴず)
雪舟等楊筆 室町時代 明応5年(1496) |愛知・齊年寺蔵
展示期間:11/8 〜 11/27

坐禅をする達磨に向かい、神光(のちの慧可)という僧が弟子となるべく己の左腕を切り落とす場面を描いたものです。画面全体を覆い尽くす重々しい岩壁と、そこに刻まれたレリーフのように微動だにしない両者の姿。異様なまでの静寂が息苦しいほどの緊張感を生み出しており、どこか近寄りがたい雰囲気すら覚えます。雪舟77歳の大作です。

臨済義玄像

臨済義玄像(りんざいぎげんぞう)
一休宗純賛 伝曾我蛇足筆 室町時代 15世紀|京都・真珠庵蔵
展示期間:10/18 〜 11/6

臨済宗の宗祖、臨済義玄(?-867)は、棒や喝(かつ)を用いる峻烈な家風をもって知られ、「臨済将軍」とも評されました。この臨済像は、通常の禅僧肖像画の穏やかな表情と異なり、怒るように眉間に皴(しわ)を寄せ、眼を剝いています。また今にも口を開いて一喝し、拳でこちらの胸を突きそうです。このような顔や手の表現により、臨済禅の激しい家風が示されています。

II 臨済禅の導入と展開

日本への禅宗の本格的な導入は鎌倉時代に始まります。とくに鎌倉時代から南北朝時代にかけて、日本人僧の中国への留学と中国からの高僧の招請は頻繁に行われ、中国からの禅宗導入がきわめて積極的に行われました。禅宗は、武家のみならず天皇家や貴族の帰依を受け、臨済宗を中心に興隆し、南北朝時代の末頃(14世紀末)には現在の臨済宗の本山十四カ寺がすべて出そろいます。室町時代、15世紀前半には、幕府の保護と統制を受ける、南禅寺を頂点とする五山派が全盛期を迎え、日本の社会に禅宗が定着します。応仁元年(1467)に始まる応仁の乱は、幕府の弱体化を引き起こすとともに、五山派の衰退をもたらし、それ以後、五山派に属さない大徳寺派や妙心寺派が勢力を拡大します。江戸時代に入ると、新たに中国から臨済宗の一派である黄檗宗が伝わり、日本の禅宗界に大きな影響をもたらします。ここでは、臨済宗・黄檗宗の各派の開祖ゆかりの作品等をご紹介し、日本における臨済禅の導入と展開の軌跡をたどります。

無準師範像

無準師範像(ぶじゅんしぱんぞう) 自賛 中国・南宋時代 嘉煕2年(1238)|京都・東福寺蔵
    展示期間:11/8 〜 11/27

東福寺の開山である聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)(1202-80)が中国留学の際に師と仰いだ無準師範(1177-1249)の肖像です。無準は中国五山の第一にあたる径山万寿寺(きんざんまんじゅじ)の住持をつとめた、南宋期を代表する高僧のひとりです。禅宗では師匠の肖像を「頂相(ちんそう)」といい、弟子が師の法を継ぐ証とされています。厳格な教えを彷彿させる無準の写実的な容貌は、弟子の円爾の求めにより描かれたものです。頭上にある「大宋国と日本国、天に垠(はて)なく、地に極(きわまり)なし」で始まる無準の自賛とあわせて、海を隔てた師弟の絆の強さを今に伝えています。

法語規則

蘭渓道隆墨蹟(らんけいどうりゅうぼくせき)法語規則(ほうごきそく)
鎌倉時代 13世紀 |神奈川・建長寺蔵
展示期間:11/15 〜 11/27

寛元4年(1246)に来日した蘭渓道隆は、筑前の円覚寺(えんがくじ)、京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に寓居(ぐうきょ)したのち、北条時頼の依頼を受けて、鎌倉の建長寺の開山となりました。法語と規則は、禅僧が修行に際しての心構えを訓諭(くんゆ)したものです。大道を体得するための要諦(ようてい)を説き、励行(れいこう)すべき具体例をあげて、怠惰を戒め綱紀を粛正する内容からは、蘭渓道隆の厳しい禅風を窺うことができます。

九条袈裟九条袈裟(部分)

九条袈裟(くじょうけさ) 無関普門所用(むかんふもんしょよう) 中国・元時代 13〜14世紀|京都・天授庵蔵 展示期間:10/18 〜 11/13

入宋した無関普門(南禅寺開山・1212‐91)が、その師・断橋妙倫から授けられたという九条袈裟。如来、菩薩、阿修羅などの尊像とともに、中国風俗の人物像が、編繡(あみぬい)という珍しい刺繡(ししゅう)技法で表わされています。仏教と道教が習合した世界観を感じさせるこの袈裟には、当時の中国での仏教信仰の実相が投影されているのでしょう。

III 戦国武将と近世の高僧

戦国時代の武将たちは、禅僧に帰依して指導を受ける一方、時に参謀として戦略の相談をし、あるいは他の武将との交渉役を任せることもありました。武田信玄と快川紹喜(かいせんじょうき)、織田信長と沢彦宗恩(たくげんそうおん)、豊臣秀吉と南化玄興(なんかげんこう)など枚挙にいとまがありません。これにより、各地の禅宗寺院が大名の庇護を受けて繁栄しました。近世では沢庵宗彭(たくあんそうほう)(1573‐1646)が徳川家光に近侍し、白隠慧鶴(1685‐1768)、僊厓義梵(せんがいぎぼん)(1750‐1837)は禅画を描き、民衆への布教を行いました。とくに白隠は、臨済宗の法脈がすべてその下に連なるため、臨済宗中興の祖とされています。ここでは、戦国武将と禅僧の肖像画、さらには近世の代表的な禅僧の遺品を中心に紹介し、禅宗の広まりを通覧します。

織田信長像

織田信長像(おだのぶながぞう) 狩野永徳筆 安土桃山時代 天正12年(1584)|京都・大徳寺蔵
展示期間:10/18 〜 11/6

足利義昭から許された桐紋と織田家の木瓜紋を配した肩衣袴姿に脇差をさし、扇子を握って上畳に座る信長の肖像。細面に切れ長の目、眉間の皺が意志の強さと神経質な性格を感じさせます。信長の葬儀が行われた大徳寺塔頭総見院に伝来し、信長と豊臣秀吉の寵愛を受けた狩野永徳が、信長の三回忌法要のために描いたと考えられています。本図の下に別の信長像が描かれていたことが確認されており、何らかの理由で描き直された姿で完成となっています。

達磨像

達磨像(だるまぞう) 白隠慧鶴(はくいんえかく)筆 
江戸時代 18世紀|大分・萬壽寺蔵 通期展示

縦2メートル近い画面いっぱいに描かれた巨大な顔、ことさら大きなぎょろ目。圧倒的な迫力です。白抜き文字は、達磨の宗旨「直指人心 見性成仏(経説によらずに坐禅によって心の本性を見きわめ、人の心と仏性とが本来一つであると悟って仏道を完成させる)」。庶民に禅を広めることに努めた白隠は、比類なく力強い造形の書画を数多く遺しました。なかでも著名な最晩年の名作です。

IV 禅の仏たち

禅宗の生活規範である「清規(しんぎ)」をまもり、坐禅、問答などを通じて、みずからが修行することを重視した禅宗では、他宗にくらべると、礼拝(らいはい)のための仏像や仏画は少ないかもしれません。それでも、菩薩のような姿の宝冠釈迦(ほうかんしゃか)、修行者である羅漢、伽藍(がらん)の守護神など、禅宗寺院特有の尊像があります。また、江戸時代に伝えられた黄檗宗の寺院では、隠元隆琦(いんげんりゅうき・1592‐1673)の考えに基づき、異国風を強く残した尊像がみられます。他宗にはない個性的な像がみられるのが、禅宗寺院の特徴のひとつです。これらはいずれも、言葉にできない「心をかたちに」したものといえるでしょう。ここでは、仏像、仏画や経典などを通して、禅宗における信仰のすがたをご覧いただきます。

羅怙羅尊者

羅怙羅尊者(部分)

(部分)

十八羅漢坐像(じゅうはちらかんざぞう)のうち 羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)
范道生作 江戸時代 寛文4年(1664)|京都・萬福寺蔵 通期展示

羅漢(阿羅漢)とはサンスクリットのアルハットを音で写したもので、釈尊の弟子のなかでも、その教えをよく理解した優れた修行者のことです。そのひとりの羅怙羅尊者は、釈尊の実子でした。顔が醜かったとも伝えられる羅怙羅ですが、心には仏が宿っていることを自分の胸を開いてみせています。本像は、中国人仏師・范道生(はんどうせい)の作です。黄檗宗を日本に伝えた隠元が求めたのは、このような中国風の像でした。

宝冠釈迦如来および両脇侍坐像

宝冠釈迦如来および両脇侍坐像(ほうかんしゃかにょらい および りょうきょうじざぞう) 院吉・院広・院遵作 南北朝時代 
観応3年(1352)|静岡・方広寺蔵 通期展示

宝冠をいただく釈迦如来像は、本来は華厳教主の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)ですが、南北朝時代には宝冠の釈迦と呼ばれるようになりました。この三尊は像底の銘文により観応3年(1352)、院吉・院広・院遵の作とわかります。院吉は足利家の菩提寺である等持院(とうじいん)の本尊や天龍寺の本尊も造ったことが記録に残されています。中国・南宋時代の江南(こうなん)地方の作風を下敷きにした院派仏師(名前に「院」の字が付く仏師の系統)の独特の作風が禅宗寺院に広く採用されました。

V 禅文化の広がり

日本と中国を行き来した禅僧たちは、禅の思想だけでなく、さまざまな文物(唐物)や風習をもたらしました。その代表例は水墨画や詩画軸(しがじく/漢詩文を備えた絵画)、喫茶などで、日本の文化に大きな影響を与えました。また、室内を彩った巨大な障壁画や屏風は、禅宗文化の奥深さや多様性を示すものといえるでしょう。

こうした禅の文化が日本国内で広がった背景には、禅の思想享受と流布が根底にあることはいうまでもありませんが、日本人独特のモノのとらえ方も関係していると考えられます。唐物をアレンジして、室内の飾りつけにみられるようなあらたな美意識を創出した日本人の感性はその一例です。ここでは展覧会の締めくくりとして、書画や工芸品を通じて禅宗が日本の文化にもたらした影響を体感していただきます。

瓢鮎図

瓢鮎図(ひょうねんず)
大岳周崇等三十一僧賛 大巧如拙筆 室町時代 15世紀 |京都・退蔵院蔵
展示期間:11/8 〜 11/27

禅に傾倒した室町幕府第四代将軍、足利義持(あしかがよしもち)が「丸くすべすべした瓢簞(ひょうたん)で、ぬるぬるした鮎(なまず)をおさえ捕ることができるか」というテーマを出して、絵を如拙(じょせつ)に描かせ、詩を五山の禅僧たちに詠ませ、衝立に仕立て座右に置いていたのがこの作品の当初の姿です。現在は掛幅に改装されています。如拙は応永年間(1394-1428)に京都の相国寺(しょうこくじ)を拠点に活躍した禅僧画家です。この作品は室町時代初期の水墨画の名作ですが、禅宗界の絵画様式と主題が、将軍家や武家社会といった禅宗界の外縁に広がる様相を物語ります。

玳玻天目

玳玻天目(たいひてんもく)
吉州窯 中国・南宋時代 12世紀
|京都・相国寺蔵 通期展示

禅の教えとともに、多くの唐物文物を中国より請来しました。天目形の茶碗もそうした文物の一つで、主に茶礼の場で多く用いられています。玳玻とは釉が鼈甲の様子に似ていることからその名が付けられたといわれ、中国の吉州窯で焼かれたものです。見込みの花文を梅に見立て、梅花天目とも称されています。

四季花鳥図

大仙院方丈障壁画のうち 四季花鳥図(だいせんいんほうじょうしょうへきが しきかちょうず) 狩野元信(かのうもとのぶ)筆 永正十年(1513)|京都・大仙院蔵 展示期間:11/8 〜 11/27

大徳寺の塔頭、大仙院の方丈(檀那の間)を飾っていた元襖絵。動感溢れる巨松と滝が長大な画面をしっかりと支えており、花や鳥に施された濃彩も鮮烈なまでの色彩効果をあげています。豪壮華麗な桃山障壁画の登場さえ予感させる、室町水墨画を代表する名品といえるでしょう。筆者の元信は狩野派を繁栄に導いた立役者で、幼い孫の永徳に絵を教えたことでも有名です。

龍虎図屏風

龍虎図屏風

龍虎図屏風(りゅうこずびょうぶ)
狩野山楽(かのうさんらく)筆 安土桃山〜江戸時代 17世紀|京都・妙心寺蔵
展示期間:11/8 〜 11/27

天空から風雨を巻き起こし降りくる龍、竹林を駆け巡る雌雄の虎。龍虎の対決です。右から左へ強烈な風が吹いていますが、振り返る雄虎の迫力によって一挙に撥ね返されます。これほどの迫力の虎の絵は他にないでしょう。大地を揺らす虎の咆哮は、「かーつ!」という臨済義玄の喝の大音声と共鳴するかのよう。桃山絵画の巨匠狩野山楽の渾身の作で妙心寺伝来、高さ2メートルにおよぶ大屏風です。

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